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アジアの平和 Peace in Asia

1年以上

明治以降の日本の歴史
日中戦争・太平洋戦争と日独伊三国同盟
中国戦線風景-日独伊三国同盟 

詳細:Amazon/Kindle ebooks(電子書籍)
日本版:棗の夢 回想の記-日中戦争
英語版:RECOLLECTION OF SINO-JAPANESE WAR
by Yoshiyuki Hirano

私の父春太郎は平成134月、88歳で永眠したが、その後、郷里の倉庫より20枚前後の写真が見つかった。父が中国戦線から持ち帰ったものである。かなり損傷していたが、中国大陸の風景や庶民の様子を撮影したものであるため、その一部を電子版の著書(上記)に掲載した。上海、杭州、南京、安慶など揚子江流域を中心に撮影したもので、中には北京の風景も含まれていた。上の写真はその中の1枚である。

明治以後の日本の富国強兵策

    1868(明治元)年、日本は、それまで士農工商という身分制度と鎖国政策を基盤にしていた徳川幕府が倒れ、王政復古の号令により、天皇制の明治維新を迎えた。明治政府は経済・軍事・教育など各方面の改革を矢継ぎ早に実行し、資本主義を基盤とした富国強兵、殖産興業策をとって列強への仲間入りを目指した。その日本の力が示されたのが、日清戦争(18941895)、日露戦争(19041905)、であり、さらに大正時代に入ってからの第一次世界大戦(19141918)への参戦である。日清戦争では、清国との間で朝鮮市場をめぐって利害が対立し交戦状態となった。下関条約(1985)により、戦争は終結、申告より台湾、遼東半島、澎湖等の割譲を受けた。日露戦争では、ロシアの満州、朝鮮からの撤兵を要求し、ポーツマス講和条約(1905年)により、日本の韓国における政治・軍事・経済上の特権が承認された。1910年には韓国を併合。

 

列強の植民地政策と日独伊三国同盟

  日本は明治に入ってからようやく海外に目を向けたが、欧州の列強諸国は、古くは西、葡、さらに1819世紀には英、仏、蘭などの国々がアジアに対し積極的な植民地政策をとっており、インドや東南アジア、南太平洋の国々は、その多くがこれら列強の植民地となっていた。一方、日、独、伊は、列強より出遅れたため、アジア太平洋地域への進出を巡って列強と対立、その状況下で1940(昭和15)年9月に日独伊三国同盟が締結された。これにより米英仏蘭などの連合国との対立はいっそう激化することになった。

 

日中戦争から太平洋戦争へ

  中国戦線では、すでに1939(昭和14)年12月より翌年2月にかけて中国軍の冬季攻勢があり、日本軍の軍事作戦はゆきづまり始めていた。さらに、米国が対日経済制裁を強め、英国と協力して中国政府に対する物資援助を開始したため、中国戦線での日本軍の戦況は次第に不利となった。日本はその転機を南方進出に見出そうとして米国と対立、1941(昭和16)年12月、日本軍がハワイ真珠湾を急襲して太平洋戦争に突入した。同時期に日本軍はマレー半島への侵攻も行なっている。中国のどこで撮影された写真かが不明だが、日本が戦勝ムードに包まれている様子が描かれている。

 

日本の戦勝ムード

  太平洋戦争突入後、翌年の1942(昭和17)年にかけては南太平洋地域での日本軍の勝利が国内に報告され、国中が戦勝ムードに沸き立った。その後米軍の攻勢により日本軍は次第に後退していくのであるが、その戦況は国民に十分に伝わらなかった。国家による言論統制が行なわれていたためである。同年5月に中国戦線より内地に帰還した春太郎さえ、日本が敗戦に追い込まれるとは思っていなかった。悪くても日本は米国連合国と和睦して新たな領土がもらえるくらいにしか思っていた。

 

日独伊三国同盟の崩壊、戦況悪化

     1944(昭和19)年8月、石原産業からの招聘を受け、広大なマレー農園の指導のためシンガポールに渡るが、その前年、1943(昭和18)年9月にはイタリアが連合国に無条件降伏したため、日独伊三国同盟は崩壊した。それでも的確な戦況を知らされていないため、民衆には日本の敗戦が間近に迫っていることを予想できていない。シンガポールに駐在しマレー農園指導の業務に励んでいた春太郎は、この頃内地からの食糧輸送が途絶え始めていることは知っていた。事務所近くで訓練する日本軍の舟艇特攻隊に対し現地での食糧斡旋を頼まれたのはこの頃である。さらに、春太郎は、1945(昭和20)5月、シンガポールの南方軍総司令部から呼び出しを受けた。日本軍玉砕の際には、ジャングルの共産本部に単身で入ってほしいとの要請だった。戦況が大きく傾いていることを知ったのはこの時である。

 

敗戦とその後の復興

    1945(昭和20)年4月にはドイツが無条件降伏、同年8月には米軍B-29の広島、長崎への原爆投下、同月14日に日本はポツダム宣言を受諾して、15日の戦争終結(玉音放送)を迎えることになった。その情報は、シンガポールの元海賊の親方の家に滞在していた春太郎の元に、いち早く伝わった。知らせてくれたのは親しく交流していた現地人だった。このようにして日中戦争、太平洋戦争は国民の大きな犠牲の上に終わりを告げたのであるが、その後、連合国に無残にも敗れたドイツ、日本、イタリアは、米ソの対立の冷戦が続く国際社会の中で、敗戦の荒廃から見事に復帰し、平和な社会を復興しただけでなく、世界経済の牽引役を担うまでに至ったのは賞賛に値する。

1年以上


農村社会 - 明治・大正・昭和
JAPANESE RURAL COMMUNITIES
IN PREWAR TIMES

明治・大正時代の暮らしを知り、
現代社会を見直しましょう


For details, see Amazon/Kindle ebooks
by Yoshiyuki Hirano

祖先の暮らしを振り返ることの意義について

現代社会は、政治・経済・社会的要因、そして大自然の脅威等により、絶えず平和を脅かされています。その一方で、人々の多くは現代社会の豊かな生活環境を当然のごとく受け止めて暮らしています。豊かな環境であればあるほど、わずかの変化にも一喜一憂したり、私たちの周囲や社会に対して不満が募ります。諦めや絶望を伴なうこともあります。状況は異なりますが、これと同様のことがずっと以前の私たちの祖先にも起こっていました。しかしそれは社会情勢や生活環境が現代社会とは比較にならないほど劣悪な時代のことです。そのような祖先の暮らしを振り返ってみることで、恵まれた現代社会を見直し、生きることの充実感を取り戻して、いっそう力強く前進できようになると思います。私たちの衣食住に関わるもの - 着物、履物、食物、交通、通信、娯楽など - それぞれに対して有難いという感謝の気持ちをもっているだけでも、自身、そして周囲を明るくできるのではないでしょうか。

明治・大正時代の農村の暮らしを見てみましょう

今では明治・大正の古い時代に生まれた人たちから話を聞く機会がほとんどできなくなり、昔のことを知らないまま生きている人が増えています。その時代の暮らしぶりや出来事は私たちの身近な祖先の記録に具体的に残っていますから、それによって彼らがどのように生きたかを実感として捉えることができます。特に日本の農村には明治維新後の近代化の波が都市よりずっと遅れて入ってきました、それが旧態依然とした農作業中心の日々の生活の中に入ってきましたので、新しい衣食住の文化に対する人々の驚き、戸惑い、顕著な文化の変遷が確認し易いのです。

現代社会と比較してみましょう

まず農村では農業以外の別の職業を選択する余地がありませんでした。明治維新後ですから江戸時代の士農工商のような身分制度はすでに廃止されていましたが、農民は土地に依存して生計を立てており、一方、農村の社会秩序から脱却することも容易ではなかったためです。特に農村世帯の嫡男として生まれた者は、家督を継いで大家族を支える義務がありました。その苦労は日本の敗戦後まで続きました。その上、百姓仕事は過酷なものでした。「稼ぐに追いつく貧乏なし」という言葉が使われました。男も女も家族総出で朝早くから夜遅くまで働き通したのです。当時は保育所のような施設はありません。小さい子供をもつ親は野良仕事中の子供の処置に工夫が必要でした。農村では普段着の衣服も履物も食べ物も極めて質素なものでした。当然電気がなかった時代ですから、夜の過ごし方は現代とは違います。交通手段としてのバスも電車もない時代でした。テレビのような娯楽機器も、固定電話や携帯電話のような通信機器もありません。火事が発生したら、その連絡が大変でした。現代のような便利な消防車もありませんでした。そのように現代と比較すると大変不便と思われる時代でしたが、それでも農村では日常生活の中にそれなりの楽しみや喜びを見出していました。現代社会を振り返る意味で、そのような庶民の暮らし、苦悩、生き甲斐、慣習を見て、一旦その状況に私たちの身を置いてみれば、現代社会の価値が正しく評価できるのではないかと思います。また、生きる勇気もいっそう湧いてくると思われるのです。

農村の高齢化、過疎化、少子化について

小さい日本国土の経済は都市に集中しています。多くの農村が再生不能ではないかという状況に陥っています。野山は荒れ果て、猪、鹿、熊、猿などの野獣が出没し、農業を営めない地域が多くなっています。高齢化、過疎化の影響で幼児・小・中学生がほとんどゼロに近い村が多く存在します。その上、農村で生まれた子供にとって極楽浄土のように楽しかった山野での遊び、池や川での遊びは、汚染や規制が加わって失われてしまいました。このような環境からの農村の再生は経済的な対策だけで解決するものではありません。都会にはない農村の魅力を国民全体が意識し合うという国の教育的な方針と、都市と農村間の結びつきを政治、社会、文化のあらゆる面で機能的に高めるという政策が必要だと思いいます。

1年以上


春太郎の手記より抜粋
日中戦争
Sino-Japanese War

福知山市大江町の農家に生まれた春太郎は、日中戦争が勃発した約1年後の1938(昭和13)年7月、日本軍の召集を受け、福知山百二十聯隊(中支那派遣軍百十六師団)、第二小隊第四分隊長として中国戦線に従軍しました。上海より杭州を経て、湖州に至り、ここで4ヶ月警備に就いた後、同年11月、安慶に到着。その後、この安慶を起点として、まる4年間、日本軍の治安警備の任に当たりました。当時、日本軍は、同年10月すでに武漢地区を占領しており、警備体制に移ったばかりの時期でした。周囲を取り囲む中国軍が絶えず攻撃をしかけ、日本軍を悩ませていました。安慶に到着した時、春太郎は24歳、常に17名の部下を率い、戦死・負傷兵が出るたびに、補充兵を迎えました。毎日、三度の食事を作り、苦しい時も、楽しい時も、心を合わせて暮らしました。機関銃の応酬でたくさんの血が流れました。春太郎は中国戦線でのまる4年にわたる戦闘で、体に3発、持っていた雑嚢や水筒などにも8発被弾したといいます。2001(平成13)年、88歳で亡くなりましたが、火葬後、遺骨に交じって出てきたものは、鉄砲の鉛弾でした。春太郎の手記の一部を紹介します(詳細は「棗の夢-回想の記 日中戦争(amazon.ebookID3036407)」参照)

竹藪の高地での戦い
最初の戦いでは、月明かりの中、腰まで水につかりながら水田を走った。初めて体験する弾の嵐。弾の音がズーズーと聞こえ、左右の戦友が倒れた。別の戦いでも猛烈な射撃を受けた。中隊長戦死、小隊長は負傷、一個中隊二百人あまりの半数が戦死するという激しい戦いだった。ある隊員は「穴に頭を入れておれば、尻に弾が当たっても命は助かる」と、手で必死にその場に穴を掘ったという。機関銃の応酬でたくさんの血が流れた。日中両軍の兵士とも若く、妻子ある人も多かった。最初の戦いでは、月明かりの中、腰までつかりながら水田を走った。初めて体験する弾の嵐。弾の音がズーズー聞こえ、左右の戦友が倒れた。別の戦いでも猛烈な射撃を受けた。ある隊員は「穴に頭を入れておれば、尻に弾が当たっても命は助かる」と、必死にその場に穴を掘った。

南昌攻略作戦

1939(昭和14)年春、南昌を南北から攻略した。広東省から北上した部隊と、漢口から南下した部隊が手を繋ぎ、中国軍を東西に切断して壊滅に追い込む作戦らしく思われた。春太郎の聯隊は陽湖に出撃した。工兵の参加で10舟ほどの鉄舟に乗り、安慶から20キロ余り上流にある湖口を出発。敵軍から悟られないためか、湖口を出発したのは夜10時頃であった。暗闇の中でエンジンの音を聞きながら、知らぬ間に眠っていた。「飛び込め!」という工兵の声に目が覚めた。上陸した砂浜から丘に上がると、その丘の向こうに広々とした畑があった。黄色い菜の花が、見渡すかぎり延々と続いていた。あまりの美しさに夢のような気がした。

中国軍の冬季攻勢

1939(昭和14)年12月、中国軍の全面攻撃が始まった。この頃、日本軍は戦線を拡大し過ぎたため、食糧、弾薬などの輸送が停滞、戦力は低下し始めていた。中国軍は、一挙に日本軍を攻撃して、戦線を奪回しようと計っていた。その時、春太郎の小隊は陳家牌という小さい部落で警備していた。陳家牌は、安慶の北方七、八キロの内陸部にある。前面に1キロほど先まで美しい田園地帯が開け、後方は、二百メートルを越す高い山に囲まれた盆地だった。日本軍による宣伝宣布がよく出来ていて、住民は日本軍に馴れていた。平常は穏やかな平和郷のようだった。しかし、冬季攻勢が始まって一夜明けると、様相はまるで変わっていた。後方の山々は中国兵に囲まれて、私の小隊はまるきり袋の鼠同様になっていた。

青陽攻略作戦

1942(昭和17)年2月頃、青陽攻略という新たな戦闘に参加することになった。 青陽は安徽省の南部、揚子江の南岸にある。人口一万人くらいの街で、路は狭かったが、案外美しい街であった。岩山を抜けて、草の生えた山道に出た。春太郎の中隊は聯隊の最後尾にあり、後衛尖兵という重大な役に就くことになった。もし、敵が追って来たら、命がけで追い払う責任がある。細道である上に、列はなかなか進まず、春太郎の隊は列から遅れていった。敵が造形を立て直したのだろうか、広いたんぼを通り、山道に入った時、後方の山やたんぼの中から、10名ほどの敵が追ってきた。


日中戦争の歴史的背景
明治・大正・昭和

 1868(明治元)年、王政復古により江戸幕府が終わりを告げ、明治維新による経済・軍事・教育など各方面の改革-身分制度の廃止(四民平等)、租税改革、徴兵令、学校の義務教育、断髪令、大日本帝国憲法発布など-が矢継ぎ早に実行されました。日本政府は資本主義を基盤として富国強兵、殖産興業策を採り、近代国家を建設して列強の仲間入りを目指したのです。その日本の力を示したのが、日清戦争(18941895年)であり、日露戦争(19041905年)でした。

 それまでの日本の長い歴史において、欧州列強諸国のような他国への侵略戦争や植民地政策は存在しません。唯一、江戸時代以前に豊臣秀吉が朝鮮に出兵を断行し、無残な結果に終わった例があるくらいです。

 日清戦争では、清国との間で朝鮮市場をめぐって利害が対立し交戦状態となりました。下関条約(1895年)により、戦争は終結、清国より台湾、遼東半島、澎湖島の割譲を受けました。日露戦争では、ロシアの満州、朝鮮からの撤兵を要求し、ポーツマス講和条約(1905年)により、日本の韓国における政治・軍事・経済上の特権が承認されました(1910年には韓国を併合)。

 日本は、台湾や韓国統治に対して、それまでの欧州列強諸国のような極端な植民地政策は採らず、同化政策を実行しました。しかし、これを契機として、日本は植民地市場の獲得を目指す列強諸国にいっそう歩調を合わせて行くことになったのです。大正時代に入ると、第一次世界大戦(19141918年)で連合国に参戦。軍需産業が発展し、明治時代にようやく確立した日本の資本主義が、この戦争により飛躍的に発展していきました。軍国主義の色彩がいっそう強くなり、日中戦争(19371945)、太平洋戦争(19411945)へと突入していったのです。
 日中戦争と太平洋戦争における日本の犠牲者は、その死傷者を合わせて230万人以上であり、それに米軍による日本国内への空襲、沖縄上陸、広島・長崎への原爆投下などによって被った民間人の犠牲者を加えると、300人以上という悲惨な結果になりました。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と比べて、極めて大きい犠牲者の数でした。一方、中国側の犠牲者は日中戦争でこの数字を相当上回ったと言われています。 ( 「棗の夢-回想の記 農村社会 明治・大正・昭和(amazon.ebook ID30369749)」参照) 

 

1年以上
 
春太郎の手記より抜粋
 
シンガポールとマレー農園の指導
Singapore and Malay Plantation
under the Pacific War


 
  福知山市大江町の農家に生まれた春太郎は、日中戦争が勃発した約1年後の昭和13年7月、日本軍の召集を受けて中国戦線に従軍しました。福知山百二十聯隊(中支那派遣軍百十六師団)、第二小隊第四分隊長として派遣され、中国安慶を起点として、まる4年間、日本軍の治安警備の任に当たりました。中国戦線から帰国した春太郎はしばらく舞鶴海軍工廠で青年学校の指導をしていました。一年ほど勤めた時、知人を通じて、「フィリピンのマニラか、シンガポールの農園に行ってくれないか」という知らせが大阪の石原産業から届きました。壮大な規模の農園を担当するという、夢のような役目でしたので、春太郎はその申し出を受け、シンガポールに行くことを決心しました。そして、太平洋戦争下の昭和19年7月、春太郎は、8千トンの汽船6,7隻、船団を護衛する海防艦2隻と共に、神戸港を出航しました。当時、渡航する30パーセントくらいの船が、米国の潜水艦に沈められているとの噂が流れていましたが、春太郎には戦場の経験があったため、何の不安もありませんでした。シンガポールとマレーでは、日本軍の占領下とはいえ、現地住民の暖かい心に接し、人種の違いを超えて交流することができました。華僑の青年たち、マレーの住民、インド人、ジャワ・ボルネオ・スマトラなどインドネシアの島々から渡ってきた旅人たちと親密な交流を行いました。春太郎にとって、おとぎの国に来たように思えたのです。  
     
 
 シンガポールへ出航 
昭和19年8月、春太郎を乗せた汽船は、夕方になる2時間ほど前に、見送り人が一人もいない中を出航、台湾経由でシンガポールに向かった。予定通り、真夜中に、黒い大きな島に着いた。それが正しく台湾だったが、一つの明かりも見えない。これは敵の攻撃を恐れて暗くしていたためだと分かった。台湾を過ぎてからは、時々、島影が見えては過ぎ、また、見えては過ぎるという航海になった。海の上に飛ぶ鳥の姿は見えないが、幾百、幾千のトビウオの飛ぶ姿が珍しく、心が和む気持ちがした。時々、伝声管から「敵潜水艦から魚雷発射、退避!」の声が聞こえて来る。すると、皆、浮き袋を着けて甲板まで昇って行かなければならない。それが邪魔だった。4、5日もすると、皆、「ままよ」という気持ちになり、誰も上に昇らないようになった。
 
     
 
 マレー農園の経営
春太郎が従事したマレー農園は、ジョホール州の「南岸鉱山」だという。太平洋戦争中、石原産業が開発に携わったマレー半島の鉱山で、ボーキサイト鉱山として有望視され、農業開発を併せて行い、鉱石を掘り尽くした後も農地として現地人の生活を保証するよう計画されていた。春太郎は、農園指導の全責任を任された。農園の数は13、その間をジャングルに囲まれた道路が碁盤の目のように走っていた。付属事業として、塩の製造、漁場が4つ、炭焼き人夫200人、ヤシ油から石鹸も作っていた。そこで働く現地人の数は3,500人くらい、将来はそれが1万人になり、農園の面積は1万エーカーを目標にしていた。農園間の移動は馬と車。春太郎は、できるだけ各農園を回り、事務所で働く青年達と一緒に泊まって、夜中の2時、3時まで話すのが日課になった。
 
     
 
 スコールとマンデイが風呂代わり
赤道直下のマライでは、ほとんど毎日、「スコール」が降る。朝日が出ると、温度がぐんぐん上がり始め、正午頃には40度近くまで上昇する。午後2時か3時頃、赤道直下のマレーは、ほとんど毎日、スコールが降る。ドーナツ型の白い雲が頭上に出来ると、飴玉くらいの雨が落ちてくる。スコールが降り始めると百メートルも逃げる余裕はない。ところが、15分か20分過ぎると、また、からっと晴れる。スコールが降り始めると、皆、裸で外に飛び出す。これが風呂代わりにもなる。日本と違い風呂はないが、毎日3、4回くらい、頭から水をかぶり、体を洗う「マンデイ」という習慣がある。春太郎も朝起きると裸になり、タライを手に持って、近くの流れにマンデイに行った。実に気持ちが良い。一緒なので、皆と心安くなった。
 
     
 
 夜の光景とマレー人の踊り
夕暮れは、気持ちが良いほど涼しくなる。春太郎の事務所は、海岸からは僅か30メートルくらいの距離がある。砂浜が続いて、ヤシの木が並木のように植わっていた。まるで絵のように美しい光景だった。夜は、満天の星空を楽しむ。南十字星が美しく輝く夜、ポンポンという鼓(つづみ)の鳴るような音が、どこからともなく聞こえてくる。マレー人の美しい娘が数人踊っていた。至ってスローモーションの、のんびりした踊りだった。海辺のヤシの木にも親しみを覚えてきた。ヤシの木は、高さが30メートル近くあり、その羽根のような葉が、風に吹かれて揺れていた。
 
     
 
 シンガポールの泥棒市場
シンガポールは、いろいろと変わった面白いところがある。泥棒市場もその一つである。街の外れの北の端で、露天のように天幕を張って、日用品を売っている。見て回るだけでも気分転換になる。店の人々の性格もさまざまで、品物を買わないでも、ひやかしながら話しているだけでも面白い。赴任して間もない頃、マレー語がまだ少しも解らず、手真似でひやかしていた。さすが国際都市の商売人だけあって、客の気持ちがすぐ伝わる。店屋を回るだけで大変面白く、半日くらいは知らぬ間に過ぎていく。赴任して間もない頃、夕暮れ前になり、帰途に着くため人力車に乗った。そして路に迷った。車夫に、指で南の方を指して、帰り始めた。どんどん人力車を走らせた。いっこうに目的地に着かず、夜どうし人力車を走らせるはめになった。車夫は当惑し疲れ果てた様子だった。
 
     
 
 獣のハンティング
事務所で働く青年たち(カラニー)と、ゴム林を歩きながら話し合った。度々、野生の猿の群れに出会う。数百匹が群をなし、どこから来るのか、枝から枝を伝ってやってくる。その群が果てしもなく続く。何とも言えない光景だ。農園3ヶ所に、3千頭の豚を飼育していた。その豚小屋の豚を、ときどき虎が襲撃した。その襲撃の仕方は凄まじい。虎は、夜間、獲物を捜し回る。虎の生け捕り方法は3通りあった。インド人は、二人一組になり、槍を投げて、鹿を捕る。槍に刺さって勢いが弱った鹿のくびに、何と、両手を巻いてぶら下がるのである。猪捕りの話も面白い。昼間、中に隠れている猪の穴の前に忍び寄る。そこに隠れて、ゴマの実を取り出し、指で押して潰す。「パチン、パチン」というような音がする。ちょうど、猪の連れがゴマの実を食べている音と間違うのか、その音を聞いた猪が、だまされて、ひょいっと、穴から首を出す。出てきたところを、槍で突き刺して捕る。猪が頭を出すまで、3時間でも、4時間でも、ゴマの実を潰し続けるという。気の長いことである。
 
     
 
 元海賊の親方との交際
赤道直下の人々は、生まれつき正直で、人情に厚いことが分かった。特に、海賊の親方リンセンに出会ったことは、幸運であった。中国人の彼は、春太郎を大変可愛がった。立派な家に住み、春太郎が訪れる度に、「マカンブッサー」(たくさん食べてくれ)と言って、ご馳走してくれた。リンセンは、一隻に3、4千俵くらい詰める機帆船の船団を3個持っていた。現地人に人望が大変厚く、りっぱな人物だった。今は、タイから米を買い、マレーで売るのが仕事だった。連絡は無線で行うという。彼との付き合いは終戦になるまで続いた。終戦間際の混乱期、また終戦直後も、春太郎は彼のお陰で難を逃れることができた。
 
     
 
 村の酋長の家
村の酋長のことをマレー語でボンゴロという。住民の保護者として、よく面倒を見るので、尊敬を受けていた。酋長の家は20畳あまりある一階建て、高い床は板張りだった。縁の下は、人の頭より高く、楽に歩いて通れるようになっていた。幅20メートルくらいの階段から床に上がる。昼間は半分くらい開放してあって、風通しが良かった。宗教は回教である。人情に厚い。いつも、4、5人は知らない人がいた。春太郎も度々訪れて、彼らと話した。ジャワから旅して来た人が多かった。ボルネオやセレベスなど、無数の小島を渡ってやって来るという。そこは宿るのも、食べるのも無料。日本人には考えられないことだった。
 
     
 
 インド人の若者ラジューの話
農場では、春太郎のそばにはいつも助手のように付いてくれたインド人がいた。名前はネサラジュー。「私の皮膚の色が黒いのは、先祖代々から、暑い所に暮らしてきたからだ」と、真剣に訴えるように何度も言った。何を言っているのだ、と春太郎は最初思った。ある時、また同じことを言った。またその次の時も、3遍までも同じことを言った。真剣な顔で訴えるように言うのを聞くと、なるほど、あるいはそうかも知れない、と思えるようになった。
 
     
  太平洋戦争の崩壊、終戦前後の現地  
 
 舟艇特攻隊
終戦まで半年もない春先、シンガポールにいた春太郎は軍の依頼を受け、舟艇特攻隊への副食物集荷に懸命になりました。舟艇特攻隊とは、一人乗りのエンジン付き小型舟の先端に、爆薬を付け、敵の軍隊に体当たりして沈める、決死の突撃隊のことです。事務所近くの湾に、200隻の舟を隠し、夜になると兵隊が訓練するのです。その時期、生活物資を集めるのが大変困難になっていたため、軍から春太郎にその役目を頼んできたのです。「それは無理な話だ」と鉱山長は反対しましたが、春太郎がそれを押し切って、手配を開始しました。春太郎は農園の責任者で、住民の支持がありました。事務所に様々な格好をした現地人が、ドカドカと出入りしていました。彼らは、回りの者には目もくれず、素通りして、皆、春太郎の前に集まり、色々の話をして帰りました。実際、春太郎は、現地人の家でも平気で一緒に寝ることができました。「よくそのようなことが、平気で出来るなあ。眠っている間に、バッサり、首を切られてしまったら、お終いではないか」事務所の者達は、あきれた表情で春太郎に言いました。
 
     
 
 ジャングルの共産本部
昭和20年5月、突然、春太郎は、シンガポール板垣征四郎総司令部から来て欲しいと連絡を受けました。春太郎は、すぐ参謀本部に出向きました。春太郎の他にも、二人、タイとマレーの国境から、それぞれ来たと言っていました。皆、春太郎と同様に、若い青年でした。その頃、日本軍の戦況は一進一退、万一、マレーが玉砕した場合、指定期日までにジャングルの共産本部に、入ってもらえないかというのです。日本軍が奪回作戦に来た際に、上陸地点を無線で知らせて欲しい、というものでした。春太郎は大変な依頼を受けてしまったのです。そして、終戦の8月15日を迎えました。日本が無条件降伏したのです。春太郎の農園やその他の日本人の倉庫では一部の現地人による略奪が始まりました。それを救ってくれたのは、元海賊の親方でした
 
 
 帰国後の春太郎
農村に生まれ育った環境が影響したのか、春太郎は生来何事にも好奇心が旺盛で、観察力に富んでいました。戦後60年を経ても、体験した当時の情景を詳細にほぼ正確に記憶していたのはそのためだと思います。私が幼少の頃、春太郎はよく話をしてくれました。話がうまいのです。子供にせがまれると、煙草をふかしながら様々な話をするのです。話題は、中国の大自然、広大さについて、そして中国はいつか世界一の国になるというのが口癖でした。続いて、マレーでの生活が話題となりました。春太郎にとって、現地の住民との暮らしが、夢のように楽しい思い出だったようです。戦後は郷里で酪農に従事し生計を立てましたが、日常生活では、社会情勢に特別関心をもっていました。一方で、大自然の雄大さから宇宙の神秘まで、よく好んで話題にしました。さらに偏狭な人の心、不公平、社会的、人種的偏見を嫌ったのも特徴的でした。狭い国の日本から脱出したい気持ちはずっと持ち続けたようでしたが、平成13年4月、永眠するまで、二度とそのような機会は訪れませんでした。私達、息子も父のその気持ちを十分察することができませんでした。父の死後、故郷には、自宅前の庭に春太郎が大陸を偲んで植えた一本の大きい棗の木が残りました。
 
1年以上
 
春太郎の手記より抜粋
 
シンガポールとマレー農園の指導
Singapore and Malay Plantation
under the Pacific War


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 福知山市大江町の農家に生まれた春太郎は、日中戦争が勃発した約1年後の昭和13年7月、日本軍の召集を受けて中国戦線に従軍しました。福知山百二十聯隊(中支那派遣軍百十六師団)、第二小隊第四分隊長として派遣され、中国安慶を起点として、まる4年間、日本軍の治安警備の任に当たりました。中国戦線から帰国した春太郎はしばらく舞鶴海軍工廠で青年学校の指導をしていました。一年ほど勤めた時、知人を通じて、「フィリピンのマニラか、シンガポールの農園に行ってくれないか」という知らせが大阪の石原産業から届きました。壮大な規模の農園を担当するという、夢のような役目でしたので、春太郎はその申し出を受け、シンガポールに行くことを決心しました。そして、太平洋戦争下の昭和19年7月、春太郎は、8千トンの汽船6,7隻、船団を護衛する海防艦2隻と共に、神戸港を出航しました。当時、渡航する30パーセントくらいの船が、米国の潜水艦に沈められているとの噂が流れていましたが、春太郎には戦場の経験があったため、何の不安もありませんでした。シンガポールとマレーでは、日本軍の占領下とはいえ、現地住民の暖かい心に接し、人種の違いを超えて交流することができました。華僑の青年たち、マレーの住民、インド人、ジャワ・ボルネオ・スマトラなどインドネシアの島々から渡ってきた旅人たちと親密な交流を行いました。春太郎にとって、おとぎの国に来たように思えたのです。 
   
 
 シンガポールへ出航 
昭和19年8月、春太郎を乗せた汽船は、夕方になる2時間ほど前に、見送り人が一人もいない中を出航、台湾経由でシンガポールに向かった。予定通り、真夜中に、黒い大きな島に着いた。それが正しく台湾だったが、一つの明かりも見えない。これは敵の攻撃を恐れて暗くしていたためだと分かった。台湾を過ぎてからは、時々、島影が見えては過ぎ、また、見えては過ぎるという航海になった。海の上に飛ぶ鳥の姿は見えないが、幾百、幾千のトビウオの飛ぶ姿が珍しく、心が和む気持ちがした。時々、伝声管から「敵潜水艦から魚雷発射、退避!」の声が聞こえて来る。すると、皆、浮き袋を着けて甲板まで昇って行かなければならない。それが邪魔だった。4、5日もすると、皆、「ままよ」という気持ちになり、誰も上に昇らないようになった。
 
   
 
 マレー農園の経営
春太郎が従事したマレー農園は、ジョホール州の「南岸鉱山」だという。太平洋戦争中、石原産業が開発に携わったマレー半島の鉱山で、ボーキサイト鉱山として有望視され、農業開発を併せて行い、鉱石を掘り尽くした後も農地として現地人の生活を保証するよう計画されていた。春太郎は、農園指導の全責任を任された。農園の数は13、その間をジャングルに囲まれた道路が碁盤の目のように走っていた。付属事業として、塩の製造、漁場が4つ、炭焼き人夫200人、ヤシ油から石鹸も作っていた。そこで働く現地人の数は3,500人くらい、将来はそれが1万人になり、農園の面積は1万エーカーを目標にしていた。農園間の移動は馬と車。春太郎は、できるだけ各農園を回り、事務所で働く青年達と一緒に泊まって、夜中の2時、3時まで話すのが日課になった。
 
   
 
 スコールとマンデイが風呂代わり
赤道直下のマライでは、ほとんど毎日、「スコール」が降る。朝日が出ると、温度がぐんぐん上がり始め、正午頃には40度近くまで上昇する。午後2時か3時頃、赤道直下のマレーは、ほとんど毎日、スコールが降る。ドーナツ型の白い雲が頭上に出来ると、飴玉くらいの雨が落ちてくる。
 
   
 
 夜の光景とマレー人の踊り
夕暮れは、気持ちが良いほど涼しくなる。春太郎の事務所は、海岸からは僅か30メートルくらいの距離がある。砂浜が続いて、ヤシの木が並木のように植わっていた。まるで絵のように美しい光景だった。夜は、満天の星空を楽しむ。南十字星が美しく輝く夜、ポンポンという鼓(つづみ)の鳴るような音が、どこからともなく聞こえてくる。マレー人の美しい娘が数人踊っていた。至ってスローモーションの、のんびりした踊りだった。
 
   
 
 シンガポールの泥棒市場
シンガポールは、いろいろと変わった面白いところがある。泥棒市場もその一つである。街の外れの北の端で、露天のように天幕を張って、日用品を売っている。見て回るだけでも気分転換になる。店の人々の性格もさまざまで、品物を買わないでも、ひやかしながら話しているだけでも面白い。赴任して間もない頃、マレー語がまだ少しも解らず、手真似でひやかしていた。さすが国際都市の商売人だけあって、客の気持ちがすぐ伝わる。店屋を回るだけで大変面白く、半日くらいは知らぬ間に過ぎていく。赴任して間もない頃、夕暮れ前になり、帰途に着くため人力車に乗った。そして路に迷った。
 
   
 
 獣のハンティング
事務所で働く青年たち(カラニー)と、ゴム林を歩きながら話し合った。度々、野生の猿の群れに出会う。数百匹が群をなし、どこから来るのか、枝から枝を伝ってやってくる。その群が果てしもなく続く。何とも言えない光景だ。農園3ヶ所に、3千頭の豚を飼育していた。その豚小屋の豚を、ときどき虎が襲撃した。その襲撃の仕方は凄まじい。
 
   
 
 元海賊の親方との交際
赤道直下の人々は、生まれつき正直で、人情に厚いことが分かった。特に、海賊の親方リンセンに出会ったことは、幸運であった。中国人の彼は、春太郎を大変可愛がった。立派な家に住み、春太郎が訪れる度に、「マカンブッサー」(たくさん食べてくれ)と言って、ご馳走してくれた。リンセンは、一隻に3、4千俵くらい詰める機帆船の船団を3個持っていた。現地人に人望が大変厚く、りっぱな人物だった。今は、タイから米を買い、マレーで売るのが仕事だった。連絡は無線で行うという。彼との付き合いは終戦になるまで続いた。終戦間際の混乱期、また終戦直後も、春太郎は彼のお陰で難を逃れることができた。
 
   
 
 村の酋長の家
村の酋長のことをマレー語でボンゴロという。住民の保護者として、よく面倒を見るので、尊敬を受けていた。
 
   
 
 インド人の若者ラジューの話
農場では、春太郎のそばにはいつも助手のように付いてくれたインド人がいた。名前はネサラジュー。「私の皮膚の色が黒いのは、先祖代々から、暑い所に暮らしてきたからだ」と、真剣に訴えるように何度も言った。何を言っているのだ、と春太郎は最初思った。ある時、また同じことを言った。またその次の時も、3遍までも同じことを言った。真剣な顔で訴えるように言うのを聞くと、なるほど、あるいはそうかも知れない、と思えるようになった。
 
   
 太平洋戦争の崩壊、終戦前後の現地 
 
 舟艇特攻隊
終戦まで半年もない春先、シンガポールにいた春太郎は軍の依頼を受け、舟艇特攻隊への副食物集荷に懸命になりました。舟艇特攻隊とは、一人乗りのエンジン付き小型舟の先端に、爆薬を付け、敵の軍隊に体当たりして沈める、決死の突撃隊のことです。事務所近くの湾に、200隻の舟を隠し、夜になると兵隊が訓練するのです。その時期、生活物資を集めるのが大変困難になっていたため、軍から春太郎にその役目を頼んできたのです。「それは無理な話だ」と鉱山長は反対しましたが、春太郎がそれを押し切って、手配を開始しました。春太郎は農園の責任者で、住民の支持がありました。事務所に様々な格好をした現地人が、ドカドカと出入りしていました。彼らは、回りの者には目もくれず、素通りして、皆、春太郎の前に集まり、色々の話をして帰りました。実際、春太郎は、現地人の家でも平気で一緒に寝ることができました。「よくそのようなことが、平気で出来るなあ。眠っている間に、バッサり、首を切られてしまったら、お終いではないか」事務所の者達は、あきれた表情で春太郎に言いました。
 
   
 
 ジャングルの共産本部
昭和20年5月、突然、春太郎は、シンガポール板垣征四郎総司令部から来て欲しいと連絡を受けました。春太郎は、すぐ参謀本部に出向きました。春太郎の他にも、二人、タイとマレーの国境から、それぞれ来たと言っていました。皆、春太郎と同様に、若い青年でした。その頃、日本軍の戦況は一進一退、万一、マレーが玉砕した場合、指定期日までにジャングルの共産本部に、入ってもらえないかというのです。日本軍が奪回作戦に来た際に、上陸地点を無線で知らせて欲しい、というものでした。春太郎は大変な依頼を受けてしまったのです。そして、終戦の8月15日を迎えました。日本が無条件降伏したのです。春太郎の農園やその他の日本人の倉庫では一部の現地人による略奪が始まりました。それを救ってくれたのは、元海賊の親方でした
 
 
 帰国後の春太郎
農村に生まれ育った環境が影響したのか、春太郎は生来何事にも好奇心が旺盛で、観察力に富んでいました。戦後60年を経ても、体験した当時の情景を詳細にほぼ正確に記憶していたのはそのためだと思います。私が幼少の頃、春太郎はよく話をしてくれました。話がうまいのです。子供にせがまれると、煙草をふかしながら様々な話をするのです。話題は、中国の大自然、広大さについて、そして中国はいつか世界一の国になるというのが口癖でした。続いて、マレーでの生活が話題となりました。春太郎にとって、現地の住民との暮らしが、夢のように楽しい思い出だったようです。戦後は郷里で酪農に従事し生計を立てましたが、日常生活では、社会情勢に特別関心をもっていました。一方で、大自然の雄大さから宇宙の神秘まで、よく好んで話題にしました。さらに偏狭な人の心、不公平、社会的、人種的偏見を嫌ったのも特徴的でした。狭い国の日本から脱出したい気持ちはずっと持ち続けたようでしたが、平成13年4月、永眠するまで、二度とそのような機会は訪れませんでした。私達、息子も父のその気持ちを十分察することができませんでした。父の死後、故郷には、自宅前の庭に春太郎が大陸を偲んで植えた一本の大きい棗の木が残りました。
 
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アジアの平和 Peace in Asia

作者:muu-chan

アジアの平和 Peace in Asia

Singapore and Malaya are where my father spent his years under the Pacific War doing his civilian mission. As he said later he felt as if he were in a fairy land, they remained long as unforgettable memory in his life. He loved the Chinese continent, too, despite the war activities he was sent for by the Japanese army.

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